フィッシュマンズ『宇宙 日本 世田谷』は、1997年2月末から6月初旬にかけて、東京・世田谷の私設スタジオ「ワイキキ・ビーチ」で作られた7作目である。ポリドールとの「2年間でアルバム3枚」という契約の最終作にあたり、バンドとして発表された最後のオリジナル・スタジオアルバムでもある。本稿は制作背景とスタジオでの逸話を中心にこの一枚を掘り下げる。

「世田谷三部作」を締めくくった一枚

1995年の『空中キャンプ』、1996年の『LONG SEASON』、そして1997年の『宇宙 日本 世田谷』。この3作は「世田谷三部作」と呼ばれる。いずれもポリドール移籍後にメンバーが用意した私設スタジオで作られ、短期間に立て続けに発表された点で一つの塊として語られてきた。本稿ではこの三部作の締めくくりとなった1枚に絞り、なぜここまで作り込まれた音になったのか、スタジオで何が起きていたのかを追う。ダブという手法そのものの成り立ちに興味がある読者は「ダブ入門|音を引いて空間を作る音楽革命——名盤10枚と系譜」もあわせて参考にしてほしい。

世田谷の街並み
アルバムの舞台であり録音の場ともなった世田谷の街並み。出典: Wikimedia Commons(Syced / CC0)

結成から移籍まで——1987年からの助走

フィッシュマンズは1987年夏、明治学院大学の音楽サークルで結成された。中心メンバーは佐藤伸治(ボーカル・ギター)、小嶋謙介(ギター・ボーカル)、茂木欣一(ドラム)。佐藤と小嶋は同学年の同級生、2学年下に茂木と、のちに加入するベースの柏原譲がいた。翌1988年から東京・渋谷のライブハウスLa.mamaを中心に活動を始め、1989年には音楽誌『宝島』のレーベル、キャプテンレコードのコンピレーション盤に楽曲を提供している。同年夏にはRCサクセションの元マネージャーが設立した事務所りぼんと契約した。同年11月、MUTE BEATと共演したイベントで、のちに1stアルバムをプロデュースするトランペット奏者の小玉和文と知り合っている。

1990年3月、キーボードのハカセ(現HAKASE-SUN)がサポートとして加入し、翌1991年にヴァージン・ジャパン(後のメディア・レモラス)からメジャーデビューを果たす。小玉のプロデュースで制作された1stアルバム『Chappie, Don’t Cry』(1991年5月21日発売)は、レコーディング前に小玉が用意したロックステディのミックステープをメンバー全員で聴き込んだ成果が結実した作品だった。1993年7月発表の3rdアルバム『Neo Yankee’s Holiday』では、それまでライブエンジニアとして関わっていたZAKが初めてレコーディングエンジニアに起用される。以後『宇宙 日本 世田谷』までの全作品を手がけることになるZAKは、事実上「もう一人のメンバー」と呼ばれるほどの存在になっていく。1994年、佐藤の楽曲がすさまじい速度で進化していく一方で、大学時代からの盟友だった小嶋がバンドを去った。その後任は補充されず、フィッシュマンズは4人編成で歩みを続けることになる。同時代の邦ロックがどんな名盤を残したかは「友達に邦ロックの名盤教えてって言われたんやが——なんJ民と選ぶ最初の3枚」でも触れているので、あわせて参照してほしい。余談ながら、同じ大学サークルの1学年下には、のちにザ・バースデイやミッシェル・ガン・エレファントで活動するチバユウスケがいた。90年代東京のインディーシーンの狭さを物語る逸話でもある。

1992年10月発表の2ndアルバム『King Master George』はパール兄弟の窪田晴男がプロデュースし、雑多な音楽性をそのままぶちまけたような内容になった。プロデューサーの窪田は後年、「レコーディングは演奏するだけじゃなく、コンソールの側にも音楽がある、とわかってくれたんじゃないか」と振り返っている。同年11月発表の4曲入りミニアルバム『Corduroy’s Mood』では一転してジャズやR&Bのニュアンスが増しており、この振れ幅の大きさもフィッシュマンズというバンドの特徴だった。1994年10月発表の4thアルバム『ORANGE』はロンドンで録音され、渋谷系に近いポップで開放的なサウンドへと舵を切っている。評論家の小野島大は、フィッシュマンズの作品系列において『Neo Yankee’s Holiday』の発展型が『空中キャンプ』にあたると位置づけている。密室的なスタジオ作業へと舵を切ったこの3rdアルバムがなければ、ワイキキ・ビーチでの編集主体の制作は生まれなかったかもしれない。

1995年3月17日、メディア・レモラス最後の作品となるライブ盤『Oh! Mountain』が発表された。シングル曲や人気曲をあえて外し、客席の歓声を極力カットしたうえで、実際のライブ音源に編集とエフェクトを加えるという手法で制作された一枚である。初期フィッシュマンズらしいゆるさと温かみを残しながらも、すでに次の時代への冷ややかな感触を先取りしており、ポリドール以降の編集主体の制作へとつながる橋渡しの役割を果たした。この作品を最後に、バンドは老舗ポリドール・レコードへと移籍する。

前代未聞の契約——ポリドールとZAKの要求

転機は1995年6月、ポリドール・レコードへの移籍だった。移籍が決まると、当時ミキシングを担当していたZAKが新任ディレクターの佐野敏也のもとを訪れ、前代未聞の要求を持ちかけたという。時間をかけてアルバムを作るための私設スタジオを用意したいので、その予算を制作費の前渡し金として渡してほしいという内容だった。当時の音楽産業は遅れてきたバブルに沸いていた時期である。バンドブームはすでに終わり、ライブハウスは閑古鳥が鳴いていたが、CDの売り上げそのものは右肩上がりに伸び続けていた。この矛盾した好況があったからこそ、レーベル側にもこの無茶な要求を受け入れる余裕があったのだと伝えられている。条件は「2年間でアルバム3枚を作ること」。こうしてフィッシュマンズは、淡島通り沿いの小さな2階建てビルを改装した私設スタジオを手に入れた。

「ワイキキ・ビーチ」という私設スタジオ

このスタジオは建物全体の総称が「ワイキキ・ビーチ」、2階のスタジオ部分が「ハワイ・スタジオ」、1階のロビー部分が「ワイキキ・オーシャンビュー・ホテル」と名付けられていた。ちょうどPro Toolsなどのデジタル・オーディオ・ワークステーションが普及し始めた時期で、コンピューターを使った比較的安価なレコーディング環境が、個人の私設スタジオでもプロ並みの制作を可能にし始めていた。高価な貸しスタジオで時間と料金を気にしながら作るのではなく、気が向いたときに行き、夜中でも明け方でも好きなときに録音できる環境が手に入ったのである。1995年7月から新作『空中キャンプ』のリハーサルが始まったが、この時期にキーボードのハカセの脱退が重なった。ワイキキ・ビーチのスタジオ自体が完成したのは同年8月のことである。

ただし小さなスタジオゆえの制約もあった。大きな音を出せないため生ドラムは使えず、MIDIドラムでのレコーディングを強いられた。ギターやベースもアンプを鳴らさずライン録音とし、3人が同時に演奏することもできないため、1人ずつ楽器を重ねていくオーバーダビング主体の制作になった。バンドが一体となって鳴らす迫力を犠牲にしかねない態勢だったが、その代わりに自由に音を差し替え、加工できるようになったことで、細やかで空間的な広がりを持つ音作りが可能になった。いわば「宅録的な環境でロックバンドの音を作る」という、当時としては珍しい方法論である。

ZAKという才能——三部作を支えたもう一人の作り手

この物語で繰り返し名前が挙がるZAKは、エンジニアとしてポリドール移籍前からフィッシュマンズと関わっていた人物である。小嶋やハカセが抜けたあとの3人編成を支えるサポートメンバーとして、ヴァイオリンとキーボードのHONZIとともにチームに加わり、『空中キャンプ』では浮遊感のあるミックスを、『LONG SEASON』では目から出血するほどの編集作業を、そして『宇宙 日本 世田谷』では8曲それぞれの密度を仕上げる役割を担った。佐藤の抽象的な歌詞と演奏を、聴き手の内側にすっと入り込む音像へと変換する——その変換装置の役割を、ZAKは3作を通じて一貫して担い続けていたことになる。彼がこのチームを離れたタイミングが、ワイキキ・ビーチというスタジオの終わりとほぼ重なっていたのは、偶然でありながらも象徴的な符合である。

空中キャンプからLONG SEASONへ——助走の2年間

半年間レコーディングができないという移籍時の制約を使い、時間に追われる生活を嫌っていた佐藤伸治は自動車の運転免許を取得する。車窓から見る景色に新たなインスピレーションを得て生まれたのが、1995年11月25日発売のシングル「ナイトクルージング」だった。ドラムの茂木欣一は、このスタジオでの制作方法が曲の質感そのものを変えたと振り返っている。

「普通のスタジオで、普通のドラム・セットを置いて、いっせーの、で音を出してたら、『ナイトクルージング』は、ああいう手触りにはならなかったんだよね。」

出典: 茂木欣一「ミュージック・マガジン」2006年2月号での発言。小野島大「佐藤伸治(フィッシュマンズ)(後編)——尽きることのない創造性」音楽ナタリー・音楽偉人伝 第15回に引用

1996年2月1日に『空中キャンプ』が発表される直前、佐藤はラジオでこの作品に込めた思いを語っている。

「このアルバムは、一人のためだけに届かせたかった。1対1っていうのが一番いいんだよ、本当は。音楽っていうのは。」

出典: 阪口マサコ「フィッシュマンズがたどり着いた世界『宇宙・日本・世田谷』」TAP the POP, 2026年3月14日

別のインタビューでは、当時のロックが持つ自己主張の強さに距離を置く姿勢も語っていた。

「ロックの人って『俺はこうなんだ!』ってのが多いじゃない?『俺の自我でどおだあ!』みたいな。やってる側の自己顕示欲じゃないところで悲しかったり、よかったりする曲。そういうのを作りたかったんだよね。」

出典: 阪口マサコ「フィッシュマンズがたどり着いた世界『宇宙・日本・世田谷』」TAP the POP, 2026年3月14日

この「1対1」の親密さを追い求める姿勢と、自己主張を避ける作曲観は、2年後の『宇宙 日本 世田谷』にもそのまま引き継がれていく。『空中キャンプ』は絶賛され、テクノやダンスミュージック界隈からも注目を集めるようになった。「若いながらも歴史あり」ツアーからはHONZIとダーツ関口(ギター)がサポートに加わり、以後のライブでは2人を迎える編成が定着していく。メディアへの露出も格段に増え、ツアーの本数も増加した。

同年9月にはシングル「SEASON」が発表され、1996年10月25日にはその拡大版として、35分をまるごと1トラックで構成した『LONG SEASON』がリリースされる。「『空中キャンプ』は8曲で1曲みたいなアルバムだから、アルバム1枚を本当に1曲で作ってみよう」という、メンバー同士の雑談から発展した企画だったという。「SEASON」をもとに何度かセッションを重ね、そこからメンバー全員とZAKがワイキキ・ビーチでアイデアを出し合いながら細かく編集していった。この作業の過酷さを物語る逸話として、モニター画面を見過ぎたZAKが目から出血したというエピソードが伝えられている。1996年から97年にかけてのツアー「LONG SEASON」の最終日、1996年12月26日の赤坂BLITZ公演は、当時この作品に衝撃を受けた音楽評論家の小野島大が、今も記憶に鮮明だと振り返るステージとして知られている。小野島は当時のレビューで、この作品の音像を「ドラッグにまみれた星屑が降り注いでくるような」と評したという。ダブのメタリックで歪んだサウンドスケープが、テクノやアンビエントを経由し、初期ピンク・フロイドの音響までも飲み込んだような、サイケデリックで大気感のある仕上がりだったという評価である。この『LONG SEASON』での編集技法の追求があったからこそ、『宇宙 日本 世田谷』は8曲それぞれに同じ密度を宿すことができたと言える。

追い詰められた4ヶ月——佐野敏也が見た制作現場

年が明けた1997年2月末、7作目となる『宇宙 日本 世田谷』のレコーディングが始まった。「2年間でアルバム3枚」という契約上の縛りがあったとはいえ、『空中キャンプ』と『LONG SEASON』という力の入った作品を作り、その合間にツアーやイベント出演もこなしてきた直後の制作である。作業は難航し、当初の予定を超えて6月初旬までもつれ込んだ。当時の担当ディレクターだった佐野敏也は、この時期の現場を次のように振り返っている。

「つらかった。話してたのは、仮にU2が『空中キャンプ』を作ったら絶対5年はCD作らないぞって。自分たちのすべてを注ぎ込んだアルバムを作って、残るものは、空っぽになった自分と疲労感ですよ。ZAKもみんなもほんと疲れてた。小嶋謙介が抜けて、ハカセが抜けて、どんどん抜けていくわけですよ。でも作品は研ぎ澄まされていく。バンドはボロボロの状態で、でも作ることをやめられない。まさに身を削って作った。その後ZAKも柏原も辞めるわけじゃないですか。ある意味自分の限界を超えてやっているから、空っぽの状態になる。でもその人と一緒にいたら充電できない。もっと作ろうとしちゃうから。だから降りるしかない。」

出典: 佐野敏也の発言、書籍『フィッシュマンズ全書』より。小野島大「佐藤伸治(フィッシュマンズ)(後編)——尽きることのない創造性」音楽ナタリー・音楽偉人伝 第15回に引用

多忙の合間を縫って佐藤が自宅で作ったデモテープを聴き、他のメンバーは途方に暮れたという。茂木は「佐藤くんのソロ色が強くなって、それをバンドに落とし込むのに苦労した」と語っている。デモの完成度があまりに高く、バンドとして何を足せばよいのか分からなくなっていたのだ。フィッシュマンズが佐藤一人のソロユニットであれば誰も悩まなかっただろうが、このバンドはZAKや周囲のスタッフも含めたチームで佐藤の表現する世界を共有し、支えることで成り立っていた。しかし『宇宙 日本 世田谷』の世界は、そのチームでも共有しきれないところまで進んでいたのである。

北沢公園で生まれた宇宙

佐藤は晴れた日に外で曲を作ることがよくあり、世田谷区の北沢公園がその場所の一つだったと伝えられている。世田谷という具体的な土地で生まれたイメージが音と結びつき、平坦な地平から空へ、そして宇宙へとつながっていく——そうして生まれたのが『宇宙 日本 世田谷』という音世界だった。佐藤自身はこの作品を「地味だ」と語ったとされ、全体を通して物静かな手触りが貫かれている。1曲目「POKKA POKKA」で幕を開け、ラストの「DAYDREAM」で閉じられる構成は、何もないこと、退屈な日々こそが愛おしいという世界観を描いている。

『宇宙』『日本』『世田谷』という3つの言葉が並ぶタイトルは、もっとも大きな広がりからもっとも身近な地名まで、一直線に並んでいる。北沢公園のベンチで生まれた一節が、レコーディングというフィルターを経て、聴き手それぞれの部屋の中で再び宇宙的な広がりを取り戻す——このアルバムが担っている役割は、その伸縮そのものだと言えるだろう。

3部作の中の到達点——編集技法の進化

世田谷三部作を制作順に並べると、技法そのものの進化が見えてくる。『空中キャンプ』は、私設スタジオという新しい環境を得て、佐藤の声と演奏が浮遊感を持って一体化することを初めて実現した作品だった。『LONG SEASON』は、その延長線上でアルバム全体を1曲として組み上げるという編集の実験そのものを主役に据えた。そして『宇宙 日本 世田谷』は、この2作で磨かれた編集技法を、8曲それぞれの完成度に落とし込み直した到達点にあたる。MIDIドラムとライン録音という制約から始まった「宅録的」な方法論が、最終的には緻密でデリケートな作り込みを持つポップスへと結実したことになる。人数が5人から3人へと縮小していく過程と、音楽的な密度が増していく過程が同時に進んだという逆説も、この3作を通してはじめて見えてくる構図である。

見取り図——8曲の聴きどころ

アルバムは全8曲、約58分。抽象的で、時に主語さえ省略された佐藤の歌詞と、ZAKによる削ぎ落とされたミックスが組み合わさり、聴き手一人ひとりの内側へ静かに入り込む音像を作り上げている。

POKKA POKKA——アルバムを開く扉

静けさをまとったまま始まる1曲目。ここから8曲を通して貫かれる「地味さ」の質感を、最初に提示する役割を担っている。MIDIドラムとライン録音という制約が、かえって音の輪郭を柔らかくしている。タイトルの擬態語が示す通り、陽だまりのような穏やかさが全体を包む。

MAGIC LOVE——唯一のシングル

本作からシングルとしてリリースされた楽曲。内省的な作品の中にあって、誰かとつながることを拒絶していない一曲であり、アルバムの中では外に開かれた聴感を持つ。「1対1」の親密さという佐藤の作曲観が、もっとも聴きやすい形で現れている一曲であり、初めてこのアルバムに触れる入り口としても機能する。

WALKING IN THE RHYTHM

タイトルの通りリズムに乗って歩くような感触を持つ曲。デビュー以来一貫していたダブに根ざしたグルーヴが、抽象的な歌詞世界を支える骨格として機能している。反復するビートの上を、佐藤の声が淡々と歩いていくような聴感がある。

DAYDREAM——最後の共同作業

アルバムを締めくくる曲であり、ZAKがこのチームで手がけた最後の仕事でもあった。ZAK自身、この曲の作業をしている頃から、何かが終わりに近づいている予感を抱いていたという。8曲を通して積み重ねられてきた静けさが、この曲でもっとも深い場所に着地する。

このほか「WEATHER REPORT」「うしろ姿」「IN THE FLIGHT」「バックビートにのっかって」の4曲も、レゲエ・ダブに根ざしたリズムと抽象度の高い歌詞世界という本作全体の質感を、それぞれの角度から支えている。8曲全体を貫く「地味さ」は、単調さではなく、削ぎ落とされた末に残った密度として聴くとよい。『Neo Yankee’s Holiday』収録の「いかれたBaby」がフィッシュマンズ史上屈指の人気曲として今も歌い継がれているのに対し、『宇宙 日本 世田谷』にはそうした一撃必殺型の代表曲は置かれていない。8曲全体を一つの流れとして聴かせる作りは、代表曲至上主義から距離を置いた、バンドの円熟を示してもいる。

夢の終わり、そして受け継がれた場所

1997年7月24日、『宇宙 日本 世田谷』は発表された。作業が一段落する頃、ZAKはチームを離れる。ワイキキ・ビーチは賃貸契約の終了にともない、アルバム発表からまもない8月4日に閉鎖された。「2年間でアルバム3枚」という契約が、そのままスタジオの寿命と重なっていたことになる。2016年9月7日には、ユニバーサルミュージックジャパンよりSHM-CD仕様で再発されており、四半世紀近い歳月を経てもなお、フィジカルメディアでの再評価が続いている一枚である。

ZAKを欠いたフィッシュマンズは、1998年8月19日に2作目のライブアルバム『8月の現状』を発表し、同年12月2日にはシングル「ゆらめきIN THE AIR」をリリースした。同月に行われた「男達の別れ」と題されたツアーの最終日、12月28日の赤坂BLITZ公演を最後に、ベースの柏原譲がバンドを離れる。この離脱は音楽性の対立によるものではなく、あらかじめ予定されていた家庭の事情によるもので、そのためツアーには「男達の別れ」という名がつけられていた。

フィッシュマンズは佐藤と茂木の2人になったが、バンド内に悲観的な空気はなく、佐藤は今後の方向性を意欲的に語っていたと伝えられている。しかし翌1999年3月、佐藤伸治は33歳でこの世を去った。これ以降、フィッシュマンズとして新たなオリジナル作品が作られることはなく、結果として『宇宙 日本 世田谷』がバンド最後のスタジオアルバムとなった。担当ディレクターだった佐野は、当時「海外で勝負したかった」とも語っていたという。誰かが仕掛けたわけでもなく、今なお世界各地で新たな聴き手が増え続けているという事実は、四半世紀近い歳月を経て、その願いが結果的に実現しつつあることを示している。2019年、佐藤の没後20年にあたり、佐野は「フィッシュマンズが続いていれば、間違いなくフジロックのヘッドライナーだった」と振り返っている。

ディスコグラフィ上の位置づけ

『宇宙 日本 世田谷』は、フィッシュマンズの7作目にあたる。1987年の結成から数えて10年目に発表された本作は、レゲエ・ダブを基調とする出発点から、私設スタジオでの編集主体の制作技法へと大きく舵を切った、10年間の到達点でもある。デビュー作からのレゲエ・ダブ路線を保ちながら、私設スタジオという環境を得たことで『空中キャンプ』『LONG SEASON』を経て制作技法そのものが進化し、その到達点として本作がある。『Chappie, Don’t Cry』(1991年)から数えて7作目にあたるスタジオアルバムであり、その道のりには小玉和文、窪田晴男という外部プロデューサーとの仕事から、ZAKとの内製体制へ移行していく制作面での変遷も刻まれている。5人編成から3人編成へと縮小しながら音楽的な密度が増していったという逆説的な軌跡も、この一枚を語る上で欠かせない。宇宙的な浮遊感を持つ音像という点では、同じく東京の電子音楽シーンで独自の「間」の美学を追求した「極小のシンセサイザーが描く余白の宇宙——レイ・ハラカミが残した「間」の美学」とも遠く呼応するところがある。

この一枚をどう聴くか

『宇宙 日本 世田谷』は、大きな音で迫力を楽しむタイプの作品ではない。むしろ音量を絞り、部屋を静かにしてから、1曲目の「POKKA POKKA」から「DAYDREAM」まで通しで聴くことで、佐藤が描いた抽象的な世界と、ZAKが削ぎ落としたミックスの呼吸が伝わってくる。MIDIドラムとライン録音というスタジオの制約が生んだ音の質感は、ヘッドフォンよりもむしろ、部屋にそっと広がるスピーカー再生で聴くと、その空間的な広がりがよく伝わる。初めて聴くなら、シングルとして独立した聴きやすさを持つ「MAGIC LOVE」から入り、そのあとに「POKKA POKKA」から「DAYDREAM」までを通しで聴き直すという順路がこのアルバムには合っている。単独の名曲を探す聴き方よりも、8曲の連なりそのものを一つの作品として捉える聴き方の方が、この一枚の設計に近い。制作の逸話ごとアルバムを掘り下げる読み方に興味があれば、「Radiohead『OK Computer』の音響と制作エピソード」も近い温度で書かれている。渋谷系とも当時のバンドブームとも距離のあった音楽性に関心があれば、「シティポップ入門——世界が再発見した日本の音、最初の5枚」で描いた同時代の空気とあわせて聴き比べるのもよい。

聴くリンク: Spotifyで聴く / Apple Musicで聴く


参考資料

  • 小野島大「佐藤伸治(フィッシュマンズ)(前編)——”覚醒”へと続く道のり」音楽ナタリー・音楽偉人伝 第14回(確認日: 2026年8月2日)
  • 小野島大「佐藤伸治(フィッシュマンズ)(後編)——尽きることのない創造性」音楽ナタリー・音楽偉人伝 第15回, https://natalie.mu/music/column/353926(確認日: 2026年8月2日)
  • 阪口マサコ「フィッシュマンズがたどり着いた世界『宇宙・日本・世田谷』」TAP the POP, 2026年3月14日(参考文献: 川崎大助著『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』河出書房新社), https://www.tapthepop.net/sommelier/81012(確認日: 2026年8月2日)
  • TAP the POP「フィッシュマンズ『宇宙・日本・世田谷』はなぜ名盤なのか」集英社オンライン, 2026年3月15日, https://shueisha.online/articles/-/256851(確認日: 2026年8月2日)
2年という期限つきの私設スタジオが生んだのは、皮肉にも、期限のない音楽だった。人数が減っていくのに音楽の密度は増していくという逆行の中で作られたこの一枚には、そこにない音を聴くというこのサイトの立ち位置と重なる場所がいくつもある。北沢公園の空から宇宙まで続いていたという佐藤伸治の視線の先を、8曲の静けさの中に何度でも探しに行きたくなる。ワイキキ・ビーチという小さな部屋が、なぜここまで遠くまで届く音を鳴らせたのか——その答えの半分は、そこに集まった人数の少なさの中にある。