マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン『Loveless』は、1989年2月から1991年まで、19ものスタジオを転々としながら制作された2作目である。歪んだギターと甘い声を溶け合わせた「壁のような音」はシューゲイザーというジャンルの規範を作ったが、その制作費をめぐる伝説には、本人の証言による訂正も存在する。
一次資料: My Bloody Valentine 公式サイト(確認日: 2026-08-02)。制作経緯の詳細は記事末の参考資料に挙げた。
2年、19のスタジオ——「伝説」と本人の証言のずれ
制作は1989年2月、サウスワークのブラックウィング・スタジオで始まった。当初レーベルのクリエイション・レコードは5日間で録り終わると見込んでいたが、そうはならなかった。バンドはその後、ワッピングの「ジ・エレファント」、バークシャーの「ウッドクレイ」、ホロウェイの「プロトコル」、ブリタニア・ロウ、イーストコートと転々とし、最終ミックスを行ったクラウチ・エンドの「ザ・チャーチ」が19番目のスタジオになったと伝えられている。
制作費については「約25万ポンド、クリエイションを倒産寸前に追い込んだ」という説がしばしば語られる。しかし発表15周年にあたり音楽誌『MAGNET』の取材に応じたケヴィン・シールズ本人は、この語りを真っ向から否定している。
「僕らがクリエイションの金を使い果たして倒産させかけたという話は、100パーセントの嘘だ。『Loveless』を作り終えたとき、クリエイションはヒット曲を持つ成功したレーベルになっていた。」
出典: MAGNET Staff「My Bloody Valentine: Kevin Shields Sets The “Loveless” Record Straight」Magnet Magazine, 2007年2月11日(2026年8月2日確認)
シールズは同インタビューで、実際にスタジオにいた期間は「1年10ヶ月」、ツアーで離れていた期間を除けば「1年4ヶ月」だったと説明し、『Rolling Stone』誌には制作費を14万ポンドと語ったとされる。音楽誌『Melody Maker』が報じた25万ポンドという数字は関係者全員が否定したという証言も、英音楽メディアのFar Out Magazineが伝えている。
出典: Paulina Subia「‘Loveless’: How My Bloody Valentine made a massively expensive masterpiece」Far Out Magazine, 2026年6月25日(2026年8月2日確認)

トレモロという発明——「壁」は積み上げではなく歪みで作られた
この作品の音像は、しばしば「無数のギタートラックを積み上げた壁」と説明される。しかしシールズ自身は、1曲あたりのギタートラックはおおむね1、2本にとどめていたと語っている。
「ギターを何本も重ねると、効果が薄れて音が小さくまとまってしまう。僕らのレコードのトラック数は、多くのバンドのデモテープと同じくらいのものだ。エコーもリバーブもコーラスもフランジャーも使わない、パンニングもしない——それが僕の中でのタブーだった。唯一使ったのは、リバースリバーブのエフェクトだけだ。」
出典: MAGNET Staff「My Bloody Valentine: Kevin Shields Sets The “Loveless” Record Straight」Magnet Magazine, 2007年2月11日
「壁」の正体は音数の積層ではなく、トレモロアームを使ってピッチを微細に揺らしながらストロークする奏法によって、和音そのものの輪郭を溶かす技術だった。ビリンダ・ブッチャーの囁くように聴こえるボーカルも、実際にはかなりの声量で歌われたものだとシールズは明かしている。静けさに見える表面の下に、コントロールされた強さがあるという逆説は、この記事が繰り返し立ち返るテーマとも重なる。
発表当時の評価と、その後の評価
『Loveless』は1991年11月に発表され、全英アルバムチャートでは24位、アメリカではチャートインしなかった。発表直後、クリエイションは同様の制作を繰り返すリスクを避けるためバンドとの契約を解消したと伝えられている。商業的な成功とは言い難いスタートだったが、その後の再評価は決定的なものになった。シューゲイザーというジャンルの定義そのものを担う一枚として、今も参照され続けている。
聴きどころ
アルバムを開く「Only Shallow」、そしてクロージングを飾る「Soon」は、いずれもこの2年間の試行錯誤の最終形にあたる曲だ。「Soon」は前身となるEP『Glider』のために作られ、のちにミックスを手がけたアラン・モルダーが『Loveless』本体の制作にも呼び戻されるきっかけになった曲でもある。歪みと甘さが同居する質感を確かめるなら、まずこの2曲を起点に聴くとよい。
聴くリンク: Spotifyで聴く / Apple Musicで聴く
同じ1991年に、まったく逆の方向から「静けさ」に辿り着いたロックの記録としては「沈黙への歩幅|Talk Talkという「ポストロック」への旅路・名盤3枚」がある。轟音で塗りつぶすマイ・ブラッディ・ヴァレンタインと、音を削り続けたトーク・トーク——同じ年に、正反対の方法で「壁」と「余白」がそれぞれ完成していたことになる。シューゲイザーというジャンルの他の作品を探すなら「【まとめ】オススメのシューゲイザーバンド教えてクレメンス——7年後に答え合わせできる良スレだった」も参考になる。制作の逸話を掘り下げる読み方に関心があれば「Radiohead『OK Computer』の音響と制作エピソード」も近い温度の記事だ。
参考資料
- MAGNET Staff「My Bloody Valentine: Kevin Shields Sets The “Loveless” Record Straight」Magnet Magazine, 2007年2月11日(確認日: 2026年8月2日)
- Paulina Subia「‘Loveless’: How My Bloody Valentine made a massively expensive masterpiece」Far Out Magazine, 2026年6月25日, https://faroutmagazine.co.uk/loveless-how-my-bloody-valentine-made-a-massively-expensive-masterpiece/(確認日: 2026年8月2日)